昭和57年4月10日 朝の御理解●② ② ③
                              明渡 孝

 御理解第78節『神の機感にかのうた氏子がすくない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ』


 神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き、というふうに、神の大恩を聞いて分かったのではなくて、神の大恩を、まあ合楽ふうに言えば、実験実証さしてもろうて、「なるほど、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだ」と。いよいよ深く広く分かった時に、いよいよ神の大恩ということが分かったと言えると思うですね。
 お話を聞いて、それこそ、一すくいの水の中にも、一粒のお米の中にも、神様のいわゆる大恩恵あって始めて、水でありお米であるんだよと、聞けば分かることですけれども、分かっただけではおかげにならん。ほんとにそうだと分かった時、神の大恩が分かる。自分のものになる。子孫も続き身代もできる。まあ、人間の幸福の条件がまあ足ろうてくると。
 昨日、研修の時に、今ご本部で修行中の古屋さんが頂かれたという、柿が五つバックの中に入っておるというお話をしましたね。あれは、どういうわけその、五つの柿で、ね、まあ柿というか、柿も、(?)柿だったというから、それを私は、おかげ。おかげを頂くということは、ならあれを分からなくても、それを実感しなくても、まあ「神様お願いします」と一心にお願いしたり、お取次ぎを頂いて、おかげを受ける。
 ただし、そういうおかげを頂く世界にだけ住んだのでは、それは、おかげはあの世には持っては行かれない。神徳を受けなきゃならん。それにはやはり、渋柿の皮を剥かれて吊るされて、次第にそれが干柿となり、ね、渋が抜けて干柿となればいつまでも置いておけるというのは、いつまでも残るというのであり、あの世にも持って行ける。ね。
 だから、金光教の信心が分かるとか、詳しくなっただけでは、まあそれはね、詳しかろうが詳しくなかろうが、お取次ぎを頂いておかげを受けるという生涯であったら、ね。渋して終ってしまわなければならない。それを干柿にする、干し柿にする。それには、なら今日は、神の大恩をいよいよ、ね、いわゆる自分が身を持って体験して、なるほど、と合点がいく日々を過ごさして頂いて、ね、おかげを頂かなければならん。
 私は、五つの(?)柿のことを、あんた達は、ただ御理解を頂いて、一生がおかげで終わったじゃいけない、というだけではなくて、どういうわけで神様が五つの柿をお知らせに下さったか。というて今みなに問うたことでございますが。ね。みなさんはどうだったでしょうか。自分だけで終わってはならんという御理解でしたけれども。なぜ五つ、ね。一つでも良かりそうなもんだけれどもね。五つをバックの中に入れて見せて下さったというのは、ね。
 私は、それをご利益と頂いた。ね。五は、「ご利益を頂く」と言うけれども、ね。ご利益というのは、五つのおかげということになるでしょう。だから、これがどうしてもね、五つのおかげではなくて、五つの徳が足らうような、いわゆる五徳である。ね。五つの徳という。ね。神徳、人徳、健康の徳、ね。金の徳とか物の徳とか、人間の幸せの条件が足ろうてくる、元の頂けれるお徳を受けなきゃならない。それには、いよいよ神の大恩を知らなきゃならない。聞いて「なるほど」と分かっただけじゃなくて、自分の身を持ってそれを体験さしてもろうて、ね、自分のものにならなければならない。
 私は、二・三日前に、ある方が、子供さんが有名校と言われるある高校の試験の合格のおかげを頂いた。ところが、入学が間近になってきよるのに、何か十万円かその、納めな、入学金を納めなきゃならない。ところがそれが、願っても願ってもできないので、もうここ幾日間かそのことばっかりで、頭がいっぱいでございます、というお届けがあったんです。ね。
 子供が頭は良い。学校の試験はでけた。けれども、その入学金が揃わない。ね。お金はいくらでもある。それでも学校に通らない。これは今日の御理解から言うと、互い違いになっておるのですよね。ね。「勉強もさせたい、お金ならいくらでも出します」と言うても、できなかにゃしかたがないでしょう。ね。そんなら入学金もね、また、ね、試験もできて始めて足ろうたおかげ、ということが言えるのです。
 私は、そのことを今朝から、何かし急に心にかかりますので、お願いさしてもらいよりましたら、●②「草笛光子」と頂いた。光は光と。草笛、なんかそんな女優がおりましょう。草笛なんとかっちゅう、光子ちゅうのかやっぱ。どうですか。やっぱ光の子ですか。ああ、ならそうでしょう。「草笛光子」どういうことだと思いますか。ね。
 お互いの信心がね、ひとつ(?)柿で終わったんでは、いろんなおかげを頂いたといたしましても、いうならば、あの世には持って行かれんのだと。ご利益は頂いても、そのご利益というものは、あの世には持っては行けんのだ。ね。いわゆる五徳である。
 五つの徳と言われる。まあこの五つということには、いろいろ意味がありましょう。十徳というてもいいでしょう。ただ「ご神徳」と一言でもいいでしょう。そのご神徳でなからなければ、あの世には持って行かれんのだから、ためには、どういうことかというと、「神の大恩を知れば」ということなんです。●②
 それは、知るというか、聞いて分かったというのじゃなくて、身を持って体験するということです。「障子一重がままならぬ人の身ぞ」ということを、聞けば「なるほどそうだなぁ。障子一重向こう何があっておるやら分からんのが人間である」と分かるんだけれども、身を持ってです、ね。その、いわゆる、子供が学校の試験はできたけれども、入学試験ができたけれども、入学金が納まらない。ね。
 そこで、いうならば人間の無力さ加減。それこそ悲しいまでにそれをまず感じなければならない。ところからです、いうならば、なるほど今までは自分が働いて、自分が食べさせて、自分が学校にやりよったと思ったけれども、そこにひとつの、まあ難関というか、ね、不思議がきたらどうにもできない自分である。いよいよどうにもできないが、いよいよ無力の自分であるということが分かる。
 もう実感として、なるほど、障子一重がままならぬ人の身である。自分が学校にやろう、自分が授業料つくってやろうじゃなくて、「神様のおかげを頂かなければ」という、神様のおかげを頂いて始めて、障子一重がままならぬ人の身であるということが分かるでしょう。実験です。実証です。それを踏んまえての神の大恩でなかにゃならん。
 神の大恩をほんとうに分からしてもろうたところから、神恩、ほんとうの意味においての神恩報謝の心も生まれてくるでしょう。その神恩報謝の心が、すべてのおかげをキャッチすることになる。ね。
 ここまでは、ならみなさんも繰り返し頂いておられることですから、分かっておられるのですけれども、それを自分のものにしていく手立てがなからなければならんのです。ね。それが、私は、「草笛光子」だと思うです。ね。
 ●②草笛ということは、ならこれは、自然が奏でるひとつのリズムというふうに頂いてもいいでしょうね。草で作る。自然。手の込んだものではない、もうね、私ども子供の時に、小さい草で、中の芯をこう抜くと、もうそのままふぅっと吹いて笛になる草がありますよね。うん。ありました。ね。
 そういう、いうならば、単純と言えば単純、そういう、いうならば信心が「ほんとにそうだなぁ」と分かるために、いわば自然が奏でられるどのようなリズムも聞き逃さんですむ信心修行が要るのです。そこに光の徳が頂けるのです。●②ね。
 自分でいくらバタバタしてもできないものはできない。始めて、なら自分の力ではできないことが分かる。自分の力と思うておったのは、あれは慢心であった。自分の腕に腕があるからと思ったのも、実際は、神様のおかげを頂かなければ腕も発揮できないことが分かって始めて、ね、「我無力である、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん」ということが分かる。ね。
 分かるだけで、なら、話を聞けば分かるけれども、それを、いうなら「神の大恩を知れば」と仰る、実感としてそれを頂けれる、感じれる手立てがです、常日頃、いうならばリズムに乗った、いうなら成り行きをいよいよ大切に尊ばせて、もう尊ばずにはおれないのである。
 子供がしっかり学校にできたのに、授業料が、入学金が納められんために学校にも行けない。もう父親としてこんなに悲しいことはないけれども、その悲しいことの中から、ね、自分が育てるのじゃない、神様のおかげを頂かなければということが分かる。始めて障子一重がままならぬ人の身であることが分かって、神様にすがるよりほかにてはなしということになる。ね。
 そして、そこに、実験実証が生まれてきて、神様の、いわゆるおかげということが、神の大恩が始めてそこに開けて来るのえあり、分かってくるのである。ね。
 だから、その五つの柿の、が熟しになるまでのおかげなら、これはお互い信心しとれば誰でも受けることができる。信心ちゃありがたい。ね。おかげ、ご利益の世界。そのご利益の世界から干し柿の世界、いうならば、いつまで置いても悪くならない、あの世にも持って行けれるお徳の世界。それは、いうなら五つの(?)じゃなくて、いうなら五つの柿と。五つの干柿、干し柿ということになるじゃないでしょうか。ね。
 その干し柿を頂くためには、それこそ五徳の修行が要るんだということ。ね。干柿の中に、こう五徳が、五徳というねこう、入れます。暑い時でも「暑い」と言わずにじっとそこに辛抱しておるような、信心辛抱の徳を受けて、その信心辛抱の徳を持って、いよいよ成り行きを尊び、大切にさしてもらう。
 自分がこう、まあ言うたりしたほうが、早く道が開けそうにもあるけれども、今度ご本部で頂いたように、自然が開いてくれる道でなからなければいけん。自分で開こうと思うな。ね。
 そこで、なら子供の試験ができた。入学金がない。せっかくできたけれども、いうならば、学校にやることができなかったとして父親が嘆く。ところがその嘆きがです、喜びに変わってくる。ね。試験ができたことによって、子供は、自分の学力というものに自身を持ったであろう。行けなかったのは父親の、まあ難儀な状態のためであったけれども、その難儀がその、貧乏であった、いわば入学金も納められずして学校に、試験はできたけれども行けなかった。そのことが、ひとつの一心発起する、子供ながらもおかげを頂いて、なら中学になるなら中学なりで成功した。おかげを頂いたというようなおかげを頂きゃいいんです。
 だから、行けなかったことがかえっておかげであるという受け方は、いうなら、いよいよね、まあ悲しいまでの人間、我無力の実態を分かるための神様のお働きであったと分かる時に、それが生きてくるんです。もう必ずその子供が、いうなら、高校に行けなかったからというて、グレ出すのがあるかもしれません。けれども、こと信心、それを成り行きとして、それを御事柄として頂くならば、そこには絶対に「あの時に高校に行けなかったことがおかげであった」と分かるのである。ね。
 それこそ、夏の日の、もうそれこそ暑い日ざかりの中を、苦しみ喘ぎながらたどるという時もあろうけれども、また、秋が来て冬が来る。冬にはまた、凍りつくような中に、辛抱しなければならんことがあるかもしらんけれども、その寒いことでも、暑いことでも、それがかえっておかげと分からせて頂くためには、どういうふうな生き方をしたらいいか。ね。
 それこそ、冬に海水浴に行けと言ったってできませんけれども。夏でなからなければ行けない、海水浴の、いうならば楽しさ。ね。冬にガタガタ震えておるというのではなくて、そこに(窪をさしてもらって?)、いうならばスキーの楽しみを覚えたら、ね、もうそれこそ冬が待ち遠しい、雪の降ることが待ち遠しい。ね。
 私はね、信心はそこ、それを教えるんだと思うんですよ。だから、それを習わずして、なら「ああ冬は冷たい冷たい、寒い寒い」ばかり言うとったってできんのです。「はあ、もう夏は暑い、早秋が来にゃ」と言うとったっとじゃ、夏の楽しみとかありがたさというものは分らんのだ。夏でなからなければ頂けんもの。冬でなからなければ頂けんもの。
 それこそ、子供が学校に、ね、入学は、試験は通った、パスしたけれども、ね。授業料がなかったから、ね、納める金がなかったから学校にやれなかった。それをただ悲しいことだけにせずに、そのことのおかげで、ね、かえっておかげを頂いたと。
 私も、小学校の時には、たいへん頭が悪かったから、けれども、あることから一心発起して勉強し出したら、もうとんとん拍子におかげを頂いて、高等小学校を出た、出る前に一年間あまりの間に、ね。(志願校?)に願いを立てれと先生から言われた。校長先生からも言われた。ね。
 だから、その気になっておったけれども、父がここの(  ?  )に勤めておりましたのが、解散になりました。だから、父はそれ以来何も仕事しません。ただ母の商売だけで立っていったわけですけれども。ですから、私が学校に行くということができなくなった。
 勉強もしばらくしました。そのための。けれども、それを中途で止めて、酒屋の小僧に行きました。あん時もし志願校に行って、学校の先生になっておったら、いかにも良かったろうばってん、まあとにかく、校長さん止まりじゃないでしょうかね。成功したところで。おかげで今日の、いうなら合楽が開けてないです。ね。
 そのことをです、ほんとにおかげと実感できた、できる信心修行こそがです、ね。とにかく人間の、いうなら力の限界、いや、限界というよりも、ほんとにいよいよ「我無力である」ということを、そのこと、難儀を通して分からしてもろうて、それから、いうならスキーの稽古も良かろう、泳ぎの稽古も良かろう。そこに、夏も楽しいもんだ、冬もまたありがたいんだ、ということになってくるです。
 だから、合楽理念は、その手立てなんですよね。いうなら草笛に便乗さしてもらう。ね。その、いうなら天地のリズムの中には、もうそれこそ、何と言うでしょうかね、長歌に(元禄花見踊る?)というのがありますよね。ああいうリズムの時には、もうそれこそ踊りを知らんでも心が浮き立って来て、こそこそ踊り出したくなるような時もありましょう。
 または、それは、驚きとか悲しみとかというようなリズムになって現れてくる時もありましょう。子供がせっかく学校にできたのに、ね、その金をつくってやることができない。まあいうなら悲しいことであるけれども、その悲しい中にもリズムを発見する。ね。そういう手立てが、私は合楽理念には説いてある。御理念によるところの生き方を。
 冬には冬の、夏には夏の、ね、ありがたい、いうならば頂き方というものを体得するということ。始めて神の大恩が分かる。神の大恩が分かれば、子孫も続き、身代もできる。ね。一年まさり代まさりのいわばお徳。代まさりのおかげが受けられると仰せられるのですから、分かっただけじゃならん。それを実験実証して、いうならば、その技を体得する。泳ぎの技を、または、スキーの、いうならば技術を身に付けて始めて、冬も楽しいありがたい。夏も決して苦しいことじゃない、楽しいもんだというふうに分かってくるようなおかげを頂かなければならない。
 五つの(?)で終わってはならん。ね。五つの干柿にならしてもらうためには、皮を剥かれても、吊るされても、ね、その都度に、いよいよ自分の心というものが神に向うて行く。渋が抜けて行く。甘くなって行く。ね。その楽しみを身に付けなければ、合楽通いの値打ちはない。
 昨日、中村先生が、金銀の見事な扇子を二本持って来た。これは昔、堀尾先生と私が頂いたものですから、これに何か一筆ずつ書いてくれとこういう。だから、堀尾先生の方には、言偏に「成」「誠(まこと)」と書いてあった。あつこ先生のには、私はやっぱり「信(まこと)」というの、この信心の「信」ですね、の信で一字書いてあげた。ね。
 そして、その言偏に成というのは、例えば言うことが成就する、ということは、自分の思うたことが成就していくようなおかげを頂けよと。誠を、言うたことを現していく、誠を現していくという生き方。
 信心の「信」ね。中村先生が頂いておるそれは、これはもう限りなく追求していくもの。これ、真の信心は、これで良いということはない。ね。それも、いよいよ限りなく、いうならば信心の追求である。ね。小さいものから大きく育っていくためには、いよいよこれで良いということはない。ね、いわゆる真を追求していくという意味だよ、というて、まあ両方の扇子に、同じ「まこと」と読むけれども、一つは言偏になる。一つは信心の信。ね。
 そういう二つの内容が、ね、私どもの信心にだんだんそだっていくということ。まあ、これは私のことをいうなら、私は、欲しいと例えば心に思うたら、言わんでも思うただけで集まってくる。恐いほどである。
 ためには、●③合楽理念はもう、これまでというものじゃない、もう合楽理念というのはもう限りなく、よりほんとうなことからほんとうなことへと進んでいく。「いよいよ、よりほんとうなことを分からして下さい」という信心姿勢が必要なんです。
 合楽理念は、ただ人間の助かりの理念ですけれども、その、いうならば入り口に入っただけであって、限りなく、いうならば求め続けられていくことでしょう。●③ね。
 だから、その求め続けていけて、よりほんとなことが分かることを楽しみに、というような信心じゃないと、いつまで朝参りせんなんじゃろうか、ということになってくる。ね。
 信心を楽しゅうありがたいものにいよいよしていく。ね。ために、いよいよ草笛光子のおかげを頂きたい。ね。自然が、いうならば奏でて下さるそのリズムに乗って行けれる手立てをひとつ、合楽理念によって、ね、体得して頂きたいと思います。どうぞ。